賃貸の差にビビりますね

つらくはなかったが、若かったせいもあって、いつも何か満たされないものを感じていたようだった。 少しでも早く1人前になって独立し、母を楽にしてあげたいというあせりの気持ちがあったのかもしれない。
そんなとき、よく私は、仕事を終えたあと、今の兜町の東京証券取引所前にある鎧橋という橋のほとりに行ったものだった。 そこには、毎晩のように詩吟を詠っている人がいたのである。
今でいうストリートミュージシヤンのはしりみたいな人だったのかもしれないが、餐銭箱を置いているわけでもなく、ただ朗とした声で詩を吟じているだけなのだ。 夜といっても、まだNオンサインなどろくに灯っていなかった頃、彼の吟じる声を聞いていると、不思議に心が落ち着いてきたことを、もう遠い昔の話なのに妙にはっきりと覚えている。

鎧橋が空襲を受けたまま放っておかれて、まだ向こう岸に渡ることもできなかった時代の思い出である。 H歯科商店での私たちの主な仕事は、自分の担当する歯科医院を訪問して材料の注文を聞き、次の訪問時に届けること。
もうひとつは、調子が悪くなった医療機器を修理することだった。 材料を届けることについていえば、そう難しい仕事ではなかった。
たしかに歯科材料は種類が豊富でそれぞれに細かい違いがあるのだが、そのうち慣れて、いつの間にか商品の1つひとつを覚えている。 その上で間違いないように注文品を届けるだけだから、そんなに苦労は要らなかった。
しかも、1日に運ぶ材料の量など、たかが知れたものである。 自転車に取りつけた袋にその日自転車に乗ってお得意さんを回っていた。
日本橋にあった顧客の関口歯科医院の前で撮ったもの。 今はこの医院はない。
人変だったのは、調子が悪くなった機械を修理することである。 逆に言えば、故障を直すには、大学や工業高校を出ていなければ理解できないような面倒な知識は必要なく、職人技のみが威力を発するということである。
私には幸いした。 これまでも何度か書いたことだが、私はけっこう器用に生まれついていると自分でも思っている。
だから、故障した歯科医療機器を修理することなど、慣れさえすれば、そんなに苦労するほどのことではなかったのである。 ただ、修理法など誰も教えてくれるわけではないから、最初のうちは、多少は手間取ったことも確かだった。
ちゃんとしたやり方なら、ものの5分もかからないことでも、慣れていないために半日以上かかることもあった。

意味する賃貸をもつ言語でこの両者の賃貸に属さないものは極めて珍しい。